「5月のヒトツバタゴ」-夢の時間-(連載小説#2)
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「5月のヒトツバタゴ」-夢の時間-(連載小説#2)

僕の名前は国木星人。美術館で働く35歳。実は美術作家でもある。
16年前の10月9日、金沢21世紀美術館はオープンした。
僕は美術館の事務所でバイトをする美大生だった。オープンしたばかりのオフィスの棚はたくさんの本や書類で埋まっていて、新しく出来たばっかりとは思えないぐらい、使いこなされていたが匂いは新しい建物だった。そんな金沢21世紀美術館には、敷地内の別棟にプロジェクト工房という、天井クレーンを備え付けた、なんでも作れる施設がある。

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美術館がオープンして間もなく、ある作家が美大に講演にやってきた。その作家は美術館のアーティスト・イン・レジデンスでやってきたヤノベケンジさんだった。人の名前をなかなか憶えない僕はその作家を知っていた。東京で展示をしているのをたまたま見て印象に残っていたからだ。シリアスな内容をギャグまじりで作品にしているのが、ついつい突っ込んでしまいたくなる。それは僕が関西人だからかもしれない。
その作家は、大学の講演でも笑いを挟みながら盛り上げていた。そんな講演の最後に美術館での制作ボランティアを募集していた。大学が呼んできた作家しか知らない学生にとって、美術館で滞在制作が行われることは、刺激的なことだった。たくさんの学生たちがボランティア登録をした。日を改めて、ボランティアの説明会があり、それから実際に制作を手伝うことになっていた。不思議なもので、そのステップを踏むごとに参加する人数が減って行った。それでもたくさんの人が制作に関わっていた。しかし、初めは、たくさんいた学生たちも毎日美術館に通う人は数名になっていた。僕はその中の1人だった。
毎月イベントが行われており、その手伝いで京都や大阪の大学から学生などが来ていた。スタッフの食事を支えた「となりの晩ご飯プロジェクト」は美術館のボランティアグループのzawartの人たちが力となって、晩ご飯をゴチそうされるというもの。
僕も先端大学の回について行ったことがあった。
僕は、美術館にほぼ毎日通う中、卒業制作もうまく進めていた。そのはずだった。出来上がった作品は先生たちに大不評だった。正直今でもその不評の意味がわからない。僕は泣きながら、作り直し、なんとか卒業できることになった。これが意外と好評だったことは僕にとって屈辱的だった。美大の卒業制作はできたばかりの金沢21世紀美術館の市民ギャラリーで行った。4年生と院生が同じ会場で発表する。市民ギャラリーだけではおさまらず、僕は地下のシアター21で展示した。シアター21は、演劇やコンサート、ダンスなどの公演や映画の上映など様々な用途で使用できる黒い空間になっている。僕の白いやきもの作品は空間の中によく映えた。
卒業制作展が終了してヤノベさんの滞在制作も大詰めを迎えていた。自然と抜けていく手伝いの学生の分だけ、僕は新しい学生に声をかけ、たくさんの人を巻き込んだ。3月19、20、21のお披露目に向けてプロジェクトは進んでいった。19日のイベントでは、地元の冨田さんが作ったミニSLが丸い美術館をぐるっと取り囲んだ。19日の朝ギリギリまで僕はそのSLの線路を敷く作業に追われていた。プロジェクト工房の反対側で線路をつなげる作業をしている中、イベントが始まりSLが発車した。まだつながっていない線路を僕は急いで線路をつなげた。
最後のお披露目イベントは大成功と終わりプロジェクト工房で作家やその仲間たちと過ごした僕の5ヶ月間は終わった。

4月になって僕は美大の大学院でやきものを引き続き勉強していた。プロジェクト工房での経験が、僕に大きな影響を与えていた。やきものでのりものを作るようになっていた。エンジンがついて実際に乗って動かせる作品を作っていた。卒制で泣いた悔しさは絶対に繰り返さないと思って、大学院の2年間はしがらみにとらわれずやりたいことをやって、最終的には、土をほぼ焼くことない作品を作って、大学院を無事に修了した。
大学院を修了した僕は金沢を離れることにした。

つづく


※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

青木邦仁(金沢21世紀美術館 プログラム・アシスタント)

「金沢21世紀美術館交流課note はじめました!」 新しい出会いや繋がりを皆さんと一緒に創り出すため、スタッフ8名がレポートや批評を発信していきます。どうぞご覧ください。