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VOICE of ART

コロナ禍で世界中が一斉に沈黙した時、耳に届いたアーティストたちの声。勇気づけられ、顔を上げていこうという気持ちになり、人生の傍に芸術がある喜びを噛みしめることができました。キュレーターになろうと思った初心に帰って彼等の声をみなさんにも届けたい。「Voice of Art(アートの声)」は、同時代を生きるアーティストや芸術に携わる人々の声をインタビュー形式でご紹介していくシリーズです。

インタビュー01:山本基(やまもと もとい)

1966年広島県尾道市生まれ。1995年金沢美術工芸大学卒業。現在、金沢市在住。脳腫瘍を患った妹の死に向き合い、浄化や清めを喚起させる「塩」を用いてインスタレーション作品を制作。国内外での発表を続けている。2016年に妻・敦子さんも癌で見送った。

主な展覧会に2003年「ファースト・ステップス」MoMA P.S.1/ニューヨーク。2004年「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から」金沢21世紀美術館。2010年「MOTアニュアル2010:装飾」東京都現代美術館。個展「ザルツ」サンクト・ペーター教会/ケルン。2011年「個展 しろきもりへ」箱根彫刻の森美術館。2012-14米国巡回個展「海に還る」。2013年「物の哀れ」エルミタージュ美術館/サンクトペテルブルグ、2016年「瀬戸内国際芸術祭」、「六本木アートナイト」等がある。2002 年フィリップモリスK.K.アートアワードとP.S.1賞を受賞

(インタビュー:2020年10月28日、石川県金沢市大野にある山本基さんのスタジオにて)

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山本基《迷宮》2013年 塩 「ピース・ミーツ・アート!」会場:広島県立美術館

前半ー美術作家になるまで

―山本基さんは、金沢美術工芸大学油画出身ですが、高校卒業後、しばらくの間、お仕事していたのでしたね。

山本)そう、工業高校を卒業して造船所に務めて。プラザ合意(1985年)で希望退職したんだよね。今のコロナのように業界が大打撃を受けて。元々は実家のバイク屋を継ぐつもりで地元の造船所に入ったんだけど、機械いじりは結局あんまり好きじゃなかったことに気付いて。仕事を辞めて旅に出て、いろんな人たちに出会って。それからもともと好きだった美術をやろうと決心して、予備校にも通って受験。今から美大かと、変わっているなと当時の先生方が面白がってくれたんだと思うんだ。それで運良く合格。ストレートに入学した人たちからすると7歳も年上だったから、周りは妹弟世代。美大祭で妻と出会って、すぐに一緒に暮らし始めて。とにかく、妹の病気が見つかるまでの美大時代はめちゃくちゃ楽しかったなぁ。

―(美大祭の写真を見ながら)確かに。いいね、青春時代。(笑)。

―当時はどんな作品を作っていたのですか?

山本)いかにも、当時の美大の油絵、っていう作品。妹の病気が分かるまでは人物を使った空間構成というか。特にテーマがあった訳じゃないんだ。

―上手いですね(笑)。パースが正確。

山本)いやいや、僕はね、デッサン力がないから、写真を撮ってから格子に分割して、それを描き写してた。当時、中日大賞を受賞した作品 がこれ。素晴らしいデッサン力とか言われたけど、そうじゃない。でもこれは秘密でもなんでもなくて、今でも後進の学生たちには自分が苦手なことを補うために色々工夫したらどう?自分が得意なことで弱みを補えば良いんじゃない、って話もするよ。

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中日大賞受賞作品 《生命 Ⅰ》1992年、油彩、キャンバスF100号

—在学中に妹さんが亡くなられて作品に変化が現れましたね。人物から抽象的な表現に移行したのもこの時期でしたね。

山本)妹が亡くなったという事実。ここに在った大切なものが消えてしまった瞬間を、何かの形に留めておきたかったんだと思う。妹が亡くなってから具体的な人物を描くことをやめて、もっと即興的というか、その時に感じたことをすぐに形に置き換えられる手法を選ぶようになったのかな。油絵は時間が掛かり過ぎたんだ。当時の私にはね。他にも、和紙と銅をコラージュしてどんどん緑青を帯びて変化していくような作品とか。自分でコントロールできない、為すすべがないという、自分の気持ちを重ね合わせたような作品を作りはじめたのもこの時期からなんだ。

人が亡くなる瞬間、特に妹の場合は若かったこともあってか本当に壮絶だった。命を無理やり剥ぎ取られている感じというかさ。その体験が、今までここにあった大切なものを残したい、眼の生気が抜けて透明感が失われていく瞬間を忘れたくないという気持ちになって、作品の変化に繋がったんだと思う。妹は看護士になったばかりの年に発病したんだけど、家族で話し合って本人に告知もしてね。妹が家に帰りたい、最期は家が良いと言うので、再発してから亡くなるまでの期間は周囲の人の手を借りながら家族で点滴を打ったりして、慣れ親しんだ自宅で一緒に過ごしたんだ。きっとそういう時間を記録しておきたかったんだと思うな。このころは(マーク・)ロスコの作品が好きだった。作家のことは後で知ったんだけど、ミニマムで迫力のあるすばらしい作品。ぼわっとした輪郭が、当時の私の気持ちに寄り添ってくれるように感じたのかも知れないね。
初めてのインスタレーション作品は金沢読売会館での個展だった。生の象徴の植物と朽ちて錆びていく銅を対比させたもの。平面に対峙しているだけでは物足りなくなって、自分が作品の中に入りたいと思うようになったんだ。だから、この円 の中心に自分が横たわれるように作った。円形に並べた白い廃材には般若心経を書いてね。ほんと、自分のためだけに作った作品。また、人の死はどの瞬間を指すのかを考えていた時期には、脳死の判定基準を書いた紙を試験管に入れて蝋で封じ込めた作品とかね。 人の死に関わることを一つ一つ取り上げて、素材を選んで作っていた。塩をはじめて使ったのは美大卒業の翌年、1996年に鶴来で発表した屋外でのインスタレーション。家制度と深く結びついているお葬式について考えてみようと思って、お清めで使われる塩を使ってみたんだけど、塩って、無色透明の立方体でとにかく綺麗なんだ。ちょっと湿ってる時には、しっとりと吸い込まれるような不思議な白さもあって、その美しさに魅せられたんだと思う。この展示期間中には2回も台風が通過して、屋外展示した塩の作品が溶けて風化していく様子も良かった。一気に時間を飛び越えるようなさ。自分では、まさしくどうにも出来ない、コントロール出来ない素材だったんだ。

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《存在 -般若心経-》1994年、 ミクストメディア、会場:金沢読売会館

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《存在-脳死判定基準-》1995年、ミクストメディア 会場:金沢美術工芸大学集会ホール

—美大卒業後は?

山本)東京藝大の榎倉康二教室だったら行きたいと思って受けたんだけどダメって言われて。一緒に受験して落ちた友達と上野で頭がガンガンになるまでヤケ酒飲んだな(笑)。
その後は地元の鉄工所で働き始めた。美大入学前の仕事の経験を活かして。とにかく食っていかないといけないしね。手で何かを作ることは好きだったし、ヤスリで何かを削る時の微妙な感覚とか、何とも言えない幸せを感じるんだ(笑)。作家を止めようと思ったことは一度もなかったと思うなぁ。でも、それを叶えることが出来たのは会社の理解のおかげ。社長との出会いが大きかった。長期的に取り組める仕事を任せてくれたからこそ、作家活動と仕事の二足の草鞋を履き続けることが出来たんだと思う。社長は去年亡くなってしまったけど、感謝してもしきれないほどのご恩を感じています。

—美大の後進も作家活動と生計を立てていくことの悩みがあると聞きますが。

作家として自分の強みを高めていくことが大切、という話はするよ。自分は「塩」を使う作家で、働いていた会社では経営にも関わっていたからビジネス上のマネージメントの視点もある。あとは例えばシングルファーザーであるということ。この三つを世の中の「レア度」で測ったら、三つあることでかなり高いんじゃないかな。とにかく強みを見つけて磨いていくこと。できれば二つ、三つと増やしていって。この考え方はニッチ(隙間)とかロングテール(長いしっぽ)戦略って言い換えることもできる。全ての人にファンになってもらえないけど、ある一定の人たちにはものすごく響く。そんな作品を目指すことで誰もマネできにない強みを手に入れるっていうか、特にオリジナル性を重視するアートでは戦略的にも効果的だよね、っていう話しはするかな。
あと、作品を展示するための指示書だけじゃなくて、滞在制作するための細かい条件や報酬、お金のこともはっきり書いた書類も作ってる。日英バイリンガル版のこの書類を提出すると、こんなの初めて見たって言われることが多いけど、限られた時間で最大限のパフォーマンスを出すための自分なりの工夫なんだ。
娘が生まれるまでは、まぁどうにかなるやろと思ってたけど、妻も病気になって、今、もし自分に何かあったら一人娘には身内がいなくなる、という切実さもあったからね。深刻だった。でも自分が生涯を掛けて挑戦したいことと経済的なバランスをどう取っていけば良いかを分析したことで指標ができて、気持ちも安定したかな。とにかく自分の現状をちゃんと知ることは、全ての第一歩。お薦めだね。

—そういうマネジメントなどは一般的にはギャラリーやマネージャーの仕事ですね。

山本)もともと記録を取ったり、分析することが好きだったから出来たかもね。子供の頃、大好きだった野球の新聞の切り抜きをファイリングしたり、試合のスコアを記録して分析するとか。まぁ、規模は小さくても、自立的にちょっとずつでもいいから積み上げていくその過程が楽しいっていう性格だから嫌じゃない、というか楽しい。今もコロナ禍で助成金申請とか、アーティストだってやらないと食べていけないじゃない。だから、良かったなと思ってるよ。

—2000年代に入って塩の作品を海外でも発表し初めました。受け止められ方に日本との違いなど感じましたか。

山本)私にとっての一番の収穫は、「人間は同じなんだな」ということ。最初は塩だ!と驚かれてね(笑)。でも人間だから嬉しいこと、悲しいことはどこでも大きな違いはない。塩を見たときの反応もほぼ一緒。ことさら「違う」ということよりも、それぞれ幸せに楽しく暮らすことを望んでるんだって実感できたことは良かった。テレビやネットだけでは分からない、実体験の大切さを知ることができたってことかな。初めて行ったのはメキシコだったけど、何ともゆったりとした時間が過ぎてて、素敵だった。日本みたいにギャラリーの壁とか完璧に隅まで綺麗に塗られているわけじゃないけど、それが本質じゃないと実感できた。大切なのは、何でやっているのかということ。それが伝わればいい。塩という素材については、生きていく上で大切なものだよね、ということは共通しているから、命のことを考えている自分に共感してくれていることはわかる。もちろん、文化的背景とか、塩に抱くイメージが日本とは違う国もあるけどね。
(後半「忘れないために」につづく)

聞き手:黒澤浩美(金沢21世紀美術館チーフ・キュレーター)


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