「5月のヒトツバタゴ」-出会い、ここ・から-  (小説#1)

僕の名前は国木星人(くにきほしひと)。
美術館で働く35歳。実は美術作家でもある。
制作のあいまに美術館で働くのか、美術館の仕事のあいまに制作するのか...。
そんな2つの顔を持つ僕と美術館のお話。

2020年11月、金沢が再びにぎわいを取り戻してきた。
4月に新型コロナウイルスで緊急事態宣言が出され、日本の観光地から観光する人が消えた。それでも生活はづついている。僕は、そんな金沢に今、住んでいる。

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それでは、金沢に現代美術館ができる前の僕の話から始めてみる。
2001年3月、僕は初めて金沢にやってきた。
その時の金沢駅は今みたいにきらびやかではなかった。今も西口に残る大きな彫刻が一番目立っていて、その彫刻がずっと印象的だった。
僕は、美術大学の入試試験を受けに金沢に来た。それまで金沢がどこにあるかなんて知らなかった。雪が積もった金沢を散歩した。兼六園と石浦神社の横の坂道を登って、煉瓦造りの建物を横目に小立野台地の真っ直ぐな通りを歩いて、次の日行われる試験の会場まで行った。雪道がこんな歩きにくいなんてその時まで僕は知らなかった。
その夜、柿の木畠の中華料理店の裏の路地奥にある小さな旅館に泊まった。僕の他にも受験生が4人くらい泊まっていた。面倒見の良いおかみさんが食事の時間などを合わせて、受験生どうしのにわかな交流の時間を作ってくれた。

山本くん「俺、山本言うねん。デザイン科の試験受けに来てん。何科の試験受けに来たん?」
僕「工芸科。京都の大学の滑り止めや。どんな試験か最近まで知らんかってん」
山本くん「俺も一緒や。京都の大学も受けて、合格もらってるねん。」
僕「へー、すごいなー。」

もう会うことがないとお互いが思いつつも、その奇妙な交流の時間はすぎた。
僕は受験を終えて金沢を後にした。

その1週間後僕は金沢の大学に通うことが決まった。僕は、小立野台地の端っこにある黄色いアパートに住むことになった。
金沢のまちが一望できる気持ち良いところだった。

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大学が始まると僕はびっくりした。受験の時に宿が一緒だった人たちが同級生になっていたからだ。

美大の工芸科は陶磁、鋳金、鍛金・彫金、染色、織、漆のコースがあったが、一年生は基礎の授業。専門の素材を触ることなく色々なことをする。最初の授業は「既成概念のを打破しなさい」と工芸からしからぬコンセプチュアルな授業。先生もなんだか不真面目な真面目さで怖い。先生の評判も中々だ。それを知ってか、最初の授業の前日には花見コンパがあった。先輩たちが後輩をベロベロに酔わす。
僕も途中から記憶がない。
次の日の朝、初めての授業に遅刻しないように、必死に走りながら教室に滑り込む。授業開始早々、先生が「今年は優秀だな、みんなよく遅刻しなかったな。」
「あぁ、この先生もグルか」と、二日酔いで吐きそうになりながら僕は思った。

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5月、その先生に連れられ金沢市現代美術館収集作品展を市民芸術村に見に行った。現代美術の美術館が金沢にもできるのかとワクワクした。虫や髪の毛でできたドレスやガラスを渦巻き状に垂らした作品なんかがあった。ただ、3年後の開館は、美大に入ったばかりの僕にとって、すごく先のことで、そんなワクワク感は、すぐにどっかに消えていた。

2年生になると初めて、工芸の素材を触った。
2年生の後期になるとそれぞれの専攻に分かれるので半年でそれぞれの素材を体験して、今後の人生に関わる選択をしなければいけない。この選択は今考えれば、人生の大きな岐路だった。染めと織りに興味を持ちつつも、陶磁、鋳金、鍛彫金、漆の4つの素材を体験した。半年では6つのコース全部は体験できない仕組みだった。人生の岐路に、経験することなく道を閉ざすのはなんてひどいことだったんだろうか。結局、僕は陶磁コースを選んだ。20人いて僕一人が陶磁コースを選んだ。「みんな、どうしたんだ!」と思いながら、僕一人に対して3人の先生がつく。

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僕は専攻を超えて先輩たちに可愛がられたし、他の同級生とも仲が良かった。素材関係なく工芸科の結びつきは強かった。同級生とはよく海に遊びに行った。夏なんか晴れていたら、授業をさぼって、浮き輪を膨らませてから車に乗り込んだ。海に浸かって足で砂を探れば大きな貝が出てきた。それを持ち帰ってみんなでシーフードカレーにして食べた。
クラスメイトが「カレーは手で食べた方がうまいよ」と言ってみんなが手で食べ始めるが、僕は頑なにスプーンで食べた。

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3年生にになると自分の専攻している素材と他の素材を掛け合わせて作品を作る課題がある。僕は浅野川の石を焼いた。石の種類によっては割れて崩れたり、ドロドロに溶けたりする。それが面白くていろんな石を焼いた。その焼いた石を並べて、また川を表現した。
僕はそれをつくるのに朝の川の上流へ向かう。小立野台地の真っ直ぐない道をずっと山側に行けば湯涌温泉につながる道に出る。左手に保育園が見えてきたら、すぐ右手に橋のある農道が見える。そこに車を止めて、橋の下に降りる。朝から日が暮れるまで、川に浸かって何も考えない。音を聞いて流れを見て、時々石を拾う。
木の化石が転がっていたりする。

街中ではイチハラヒロコさんの作品で、美術館オープンのカウントダウンが始まった。白く大きな看板に黒い文字で一言書いてある。

4年生になると、10月に向けて美術館オープンの雰囲気が盛り上がって来た。
美大の卒展は、それまで大学の校舎でやっていたが、僕らからは、美術館でやれることになった。まだまだどんな物を作るか悩んでいた。
オープンに向けて美術館が慌ただしくなっていた。僕は大学の先生からの紹介で開館前の美術館でアルバイトをすることになった。
なんだかわからないが、交流課というところでアルバイトだった。
「美術館で交流課ってなんだ?何するとこをだ?現代美術だからそういうのがあるのか?」とそんなことを思いながらも、備品のシール貼りや、新聞の取材で自転車の作品に乗って、モデルもした。
ワイヤーのない変てこなエレベータがある前の階段がある空間で作家がインスタレーションを制作していた。
展示室には自動ドアの作品が並んでいた。僕にとってみたことのない作品が
たくさん並んでいた。ただただワクワクしていた。
そんなワクワク感は金沢の街の人にも感じられた。
そして10月9日、金沢21世紀美術館はオープンした。

これが美術館がオープンするまでの僕の簡単なお話。僕と美術館がこの後もっと深くなっていく。

つづく


※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

青木邦仁(交流課 プログラムアシスタント)



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